1日コース
観月台文化センター(資料室見学)
旧佐藤家住宅
近世中期のこの地方における本百姓の標準的な住居である。この建物は国見町小坂字木八丁にあったもので、昭和47年(1972年)に現在地に移転復元された。
間取りも単純で、広い土間、大黒柱や曲木を用いた梁、三方大壁の手法や出入口の大戸など、古い建築様式が遺されている。
距離1.0km 3分
奥山家住宅主館・洋館
大正10年(1921年)に建築された、この地方では数少ない和洋両方の接客空間を備えた木造の住宅建築である。西洋館は八角の塔屋を持ち、外壁はタイル貼り、土台は高い積石である。白亜の外壁は屋根、窓、玄関とよく調和し、均衡の取れた様式に、この時代における洋風建築の特色がよく残されている。
距離1.4km 3分
堰下古墳
距離1.8km 4分
塚野目第一号墳(八幡塚古墳)
塚野目古墳群の主墳で古墳時代中期の帆立貝型の前方後円墳で周濠が巡らされていた。福島県中通り地方では、最大規模級のもので、大型の朝顔型円筒埴輪が出土している。近くには、多くの石製模造品などが出土した、祭司遺構である矢ノ目遺跡がある。
距離2.6km 7分
沼田神社 本殿彫刻・再建遷宮祝俳諧歌奉額・南藤堂武俊七十齢賀寿俳諧歌奉額
徳江の旧船場跡近くにある沼田神社本殿の彫刻は、唐様の優れた手法の作品である。
伝えによれば、伊達郡高成田村の仏師長谷川雲橋、雲谷親子の作とされる。弘化年間(1844年)ごろの制作。
距離2.0km 4分
森山第四号墳
古墳時代末期の円墳4基からなる森山古墳群の1つ。円筒中央部から横穴式の胴張り型石室が検出され、銀環や直刀などの副葬品が出土した。この石室部分に覆屋を設け、保存と見学の便に供している。
距離1.9km 4分
阿津賀志山防塁(下二重堀地区)
文治5年(1189年)奥州合戦における、最大の激戦場となった阿津賀志山に、奥州平泉の藤原泰衡が源頼朝の率いる鎌倉軍を迎撃するために築かれたもので、この山の中腹より西大枝の石田へ続く約3.2km薬研堀状の防塁跡。地元では俗に二重堀と呼ばれている。
距離1.5km 3分
王壇古墳
距離2.5km 5分
大木戸窯跡
大木戸の新提西岸にある4基の窯跡群で、奈良時代の遺構といわれている。東北地方では数少ない須恵器窯跡で、多数の須恵器を出土。近くには平安時代の山居製鉄遺跡がある。
距離1.3km 3分
岩淵遺跡
高城の中山原にある縄文時代中期(4500年前頃)の竪穴式住居跡。住居は円形で直径7.4m、内部には直径3.2mの全国でも最大級の石組複合炉がある。現在、この遺跡に縄文時代の竪穴式住居を復元した。
距離0.6km 1分
御瀧神社(湧水)
自然の湧き水で豊かな実りを水神に祈った古い信仰を今に伝えている。湧き水からの清流は光明寺の村を潤し、古い時代から水田(約20ha)が開けていた。昭和61年(1986年)8月「ふくしまの水30選」に認定されている。
三常院 木造阿弥陀三尊仏立像
距離2.9km 8分
旧鉄道用地跡・レンガ積アーチ橋
距離0.3km 1分
貝田口留番所跡
距離2.9km 8分
旧奥州道中 国見峠長坂跡
古来より奥州街道における要衝にあって、険阻な山坂として著名な国見峠の難所跡。俳聖芭蕉が「奥の細道」に記した『気力聊かとり直し、路縦横に踏んで伊達の大木戸をこす』を刻んだ文学碑がある。現在もこの周辺はJR東北本線、東北自動車道、国道4号線等、東北地方を北上する主要な交通網が集中して通る地域である。
距離0.3km 1分
阿津賀志山防塁(国道北側地区)
文治5年(1189年)奥州合戦における、最大の激戦場となった阿津賀志山に、奥州平泉の藤原泰衡が源頼朝の率いる鎌倉軍を迎撃するために築かれたもので、この山の中腹より西大枝の石田へ続く約3.2km薬研堀状の防塁跡。地元では俗に二重堀と呼ばれている。
距離0.2km 1分
義経の腰掛松
石母田の鎮守国見神社の西側にある赤松の名木。伝えによれば源義経が奥州平泉へ行くときにこの地で休み、そばにあった松の木に腰掛けて休んだといわれる。
距離0.5km 2分
石母田城跡
伊達氏譜代の家臣石母田安房守光頼の拠った複郭式の平城跡。城跡の各所に土塁や水堀跡が遺され、往時の城跡景観をとどめている。また、この城にまつわる伝説を秘めた石母田石が城内にある。
距離2.2km 4分
阿津賀志山三十三観音八十八大師画像碑群
距離2.0km 4分
阿津賀志山展望台
標高289mの山で、地元では「タンガラ山」の愛称で親しまれ町のシンボルとなっている。山頂には展望台があり、銀色に輝く阿武隈川や吾妻・安達太良連峰を見渡す眺望は地元の自慢のひとつである。付近一帯は野鳥の森となっており、バードウォッチングや森林浴、健康ウォークラリー、ハイキングコースとしても最適である。
距離3.7km 10分
石母田供養石塔
徳治3年(1308年)に僧智せんが、先祖の追善供養に建立した板碑で、梵字と功徳文が刻まれている。銘文は元の帰化僧寧一山の筆跡で、鎌倉時代における禅密合一の思想を表現した特異なものである。地元では俗に蒙古の碑と呼ばれ、周辺は満福寺の古刹跡といわれている。
距離0.9km 3分
弁慶の硯石
距離1.9km 4分
藤田城跡
奥州合戦時に源頼朝が本営とした所。以後、伊達氏の一家藤田氏の居城。南北朝期に北朝軍の総攻撃にあい霊山城ととも落城。南北朝時代における東北地方の歴史解明にとって重要な史跡である。
距離2.3km 5分
深山神社の大榧・大藤
距離2.8km 8分
旧半田銀山二階平坑口跡
日本三大銀山の一つといわれた半田銀山の一部をなおしており、嘉永7年(1854年)幕府によって中敷からの排水用として開坑されたものである。桑折・国見町内で現存する数少ない坑口跡。
距離2.0km 4分
小坂口留番所跡
距離4.8km 10分
旧羽州街道小坂峠道跡
小坂峠(441m)は国見町と宮城県白石市との境に位置し、近世において出羽国諸大名の参勤交代、御城米の輸送に利用された街道跡である。旧道の東側には慶応2年(1866年)に開削した新道がある。
現在の小坂峠越えの道路は昭和47年(1972年)に完成した主要地方道白石・国見線である。
距離9.0km 25分
観月台文化センター