旧羽州街道小坂峠道跡

印刷用ページを表示する掲載日:2021年3月30日

[町史跡]旧羽州街道小坂峠道跡(読み仮名:きゅううしゅうかいどうこさかとうげみちあと)

指定年月日:平成5年10月1日

宮城県白石市との境に位置する小坂峠(標高441m)。江戸時代には、出羽から諸大名の参勤交代、御城米(幕府直轄米)の輸送に用いられた重要な街道でした。
峠道は、産坂と幕末につくられた慶応新道が残り、当時の険しい峠越えを伺うことが出来ます。

小坂峠の画像

歴史の道 羽州街道小坂峠旧道跡 説明掲示板(全文)

 羽州街道は奥州街道の桑折宿で分岐し、小坂峠を越え「山中七ヶ宿通り」から、金山峠を奥羽山脈越えに出羽国に入り、上ノ山、山形、秋田、弘前を経て油川宿(青森県青森市)に至る、出羽国の幹線道として重要視されていた。小坂峠は長嶺と呼ばれる福島、宮城の県境稜線上の鞍部(標高441メートル)に位置し、つづら折りの険阻なこの峠道は、羽州街道の難所の一つとされ、旅人の峠越えの苦痛を、お産の苦しみに例えて産坂とも呼ばれていた。

 南北朝から室町時代のはじめに、伊達郡を本拠とした伊達宗遠、政宗の親子は、この街道伝いに二井宿峠を越えて出羽国の置賜郡に攻め入り、長井道広から長井荘を奪って支配下に置くにおよんで、伊達氏の本領と新領を結ぶ重要な交通路として重視されてくる。天正7年(1579)11月には田村荘(福島県田村郡)三春城主田村清顕の娘愛姫が、長井荘米沢城(山形県米沢市)の伊達政宗のもとに嫁ぐ輿入行列の一行が、屈強な武士たちに護られ、この小坂峠を越えていった。

 近世になると江戸幕府は、諸大名に対して参勤交代を義務づけた。出羽国の諸大名は米沢藩上杉氏を除いて、古代より笹谷峠越に奥州街道の宮宿にでる最上道が利用されるが、冬期間は豪雪や吹雪により通行に支障をきたすので、秋田藩は元和年間に家老の梅津政景に命じて、山形より上山宿を経由し標高が低く積雪も少ない金山峠越えに、なだらかな白石川沿いから、小坂峠の急坂を下り桑折宿に出る新道と、途中に楢下、湯原、峠田、滑津、関、渡瀬、下戸沢、上戸沢、小坂などの宿駅を整備し、寛永元年(1624)に佐竹義宣はこの街道を通り参勤交代の帰国の途についたのに始まり、ついで津軽弘前藩、酒井庄内藩、六郷本庄藩、戸沢新庄藩、秋元山形藩、岩城亀田藩、織田天童範など大小の諸藩も、この羽州街道を利用するようになる。小坂峠は仙台藩と上杉藩、寛文4年(1664)以降は幕領との境界であり、麓集落である小坂宿と上戸沢宿には口留番所が置かれ、領内からの留物の流出と旅人の取り締まりにあたっていた。また、急な街道は交通上の大きな阻害ともなっており、文化3年(1806)庄内藩主の酒井忠器は、小坂宿で駕篭を降り急な街道を徒歩で越えたとあり、秋田藩歴代の藩主佐竹氏は参勤交代の折には、峠の不動堂に奉幣を捧げて、道中の無事を祈願するのが恒例であった。

 慶応2年(1866)早田伝之助等の尽力によって、小坂街道は猿子沢寄りの山地に移されるが、万世大路(現国道13号)や奥羽線の開通に伴い、交通の流れが米沢、栗子峠越と大きく変わり、旅人の数は減少して羽州街道は衰微していった。戦後この峠に自動車道路の開通をみたが、山間の脇街道として姿を止めているに過ぎない。参勤交代の大名行列や、伊勢参り、出羽三山詣での旅人達、屋代郷の御城米や最上の紅花などの物資の輸送に、人馬が頻繁に往来して賑わった旧道は、今は訪れる人影も絶えて深い木立の中に埋もれ、その歴史的な使命を終えている。

平成12年8月15日

篆刻 阿部善雄

文選 菊池利雄

書 鈴木捷治

用地協力者 田口義晴

場所

国見町大字鳥取字峠下地内

見学

自由