第三幕:国見で知る義経物語

印刷用ページを表示する掲載日:2016年10月4日

この地に、熱き夢が翔け巡る義経物語がある。

このまちに来ると、義経の夢にきっと会える。

腰掛松にすわる義経のイラスト

京の都や鎌倉と平泉の間にある国見町。義経が平泉の藤原氏を頼ってきたとされる道筋にあるだけに、義経にまつわる伝説がいくつか残されています。あなたも義経になったつもりで歩いてみませんか。

夢追う若武者が目にした風景を体験してみよう。

義経の腰掛松

牛若丸(源義経)が鞍馬山を出奔(しゅっぽん)し、奥州平泉の藤原秀衡を頼って東下りする折、この地でひと休みしたと言われています。その際、敷物がなかったので、路傍の若松を折り曲げて腰をおろしたのが「腰掛松(こしかけまつ)」です。江戸時代には、奥州街道の名所となり、多くの人が立ち寄ったと言われています。かつては枝張りは30mにも及んだとのことですが、1821年に修験者が蜂の巣をとり払おうとして誤って焼き枯らしてしまいました。現在の松は2代目で樹齢二百余年。町の天然記念物に指定されています。義経神社という小社があり、焼き残りの松の根幹が囲われ、保存されています。

義経の腰掛松の写真
義経の腰掛松

現在では3本の主幹のうち1本が残るのみとなり、かつての美しい枝ぶりは失われています。

平家追討を誓う兵たちの熱き声が聞こえるかも。

弁慶の硯石

平泉にいた義経が兄頼朝が平家追討の兵を挙げたこと知り、急遽(きゅうきょ)、鎌倉に向かいます。武蔵坊弁慶、伊勢三郎義盛、佐藤継信、忠信といった郎党を先頭に300余騎、全速力で駆け続けますが、この地を通った際この山預でひと休みし、閲兵(えっぺい)をしたとのこと。その時に武蔵坊弁慶がこの硯石の水で墨を摺り、義経軍の兵の名前を記したと伝えられます。硯石は上の面がくぼんでいて硯のようになっており、そこにある水がなかなか枯れないことでも知られます。

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