第一幕:義経はこんな人

印刷用ページを表示する掲載日:2016年10月6日

そのドラマは、800余年前、一人の若武者によって描かれた。

義経がいたから、日本の歴史はとっても面白い。

源義経のイラスト

日本歴史上最も有名な武将と言われる源義経。意外にも義経と国見町は深い関係で結ばれています。それは・・・、その前に源義経とはどういう人物だったのかを学んでみましょう。

幼名、牛若丸。今なら超アイドル!

幼名を牛若、遮那王(しゃなおう)とも呼ばれています。平治の乱(1159年)で父義朝が平清盛に討たれましたが、源頼朝などとともに命を助けられ、8歳の時に京都郊外の鞍馬山に預けられました。その後、金売り吉次の手引きによって鞍馬山を出奔(しゅっぽん)。元服して源九郎義経と名を改め、陸奥国の藤原秀衡の許に身をよせたのです。鞍馬山での忍者まがいの武芸訓練、京都五条大橋での弁慶との出会い…この間の義経に関する逸話はまさに枚挙(まいきょ)にいとまなし。現代なら超アイドル間違いなしでしょう。

比類なき戦の天才。連戦連勝の大活躍。

1180年。義経は挙兵した頼朝のもとへ馳せ参じ、兄弟心を一つにして平家打倒を誓いあったのです。時に義経23歳。源氏の大将軍として源(木曽)義仲を破り京に入り、一ノ谷では急な山崖を一気に駆け下って平家の陣屋を急襲し、屋島でも平家の背後を突く奇襲攻撃で敗走させました。壇ノ浦での船戦でも勝利を収めて、宿敵平家を滅ぼしたのです。連戦連勝の活躍ぶりは800年以上たった今でも色あせることなく語り継がれています。

鎌倉幕府誕生の立て役者。もし義経がいなかったら。

義経は常勝将軍といわれた戦の名人で、各地の戦いで見せたスピード感あふれる攻撃スタイルは義経だからこそできた戦術。実戦部隊の指揮官として大いに戦功をたて、合戦の花形的存在でした。「奢れるもの久しからず」の例え通り、平家は傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の振る舞いを行い、人々の反発をかっていました。滅亡の要因はいろいろあったとはいえ、義経という希代の軍事的な天才が衰亡に拍車をかけたことは確か。もしいなかったら、初の武家政権、鎌倉幕府の誕生は?・・・しかし、この「天才ぶり」が後に大きな悲劇を呼ぶのです。

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